釣りのこと

子どもに習わせるなら何がいいか。なんて話を子どもを授かる予定もないのに話すことが結構あって、習い事って言えばそろばんとかお習字とかピアノかなとか思ったりする。でも結局釣りを教えればいいという結論にいつも至る。ボクが釣りを始めたのは小学校二年生のころぐらいだったと思うんだけど、特にきっかけとかはなくて父親と試行錯誤しながら仕掛けを作ったりエサつけてたような気がする。釣れるときは釣れるし、釣れないときは釣れない。みたいな無常感が小学生ながらすごく好きだったなって、無常なんてことば知らなかったときのこと思い返してる。

釣りをしててとっても不思議だったのは、父親がボクに魚を釣らせようとやっきになってたことで、「どっちかが釣れればいいじゃん、変なの!」とか思ってたけど、この歳になって初めて釣りに行く人を連れてるときに彼の気持ちがとてもよくわかるようになった。「せっかく来たんだから一匹ぐらい釣ってほしいな!」って。ボクも少しは大人になったのかなって、ほんの少しだけ父親のこと思い出しながら感じるよ。

大人という存在は知識や経験の媒体であって、直接それらを押しつけちゃいけないなって、じぶんが先生とかいう立場のしごとを4年間やって実感してて、ボクが「熱血教師」とかいう暑苦しいだけで無意味な存在のこと「教師(ではなく講師だけど)」という立場になってますます嫌いになったのもこの実感のせい。熱血さんたちは「お前のために言ってるんだ!」とかよくのたまってたけど、オナニーはお家でしてほしいなって中学生のときから思ってたよ。熱血さんに魅了されちゃって教師を目指す未来の熱血さんがいるの最高にクールだし、ボクの人生を懸けて否定してあげる。サヨウナラ。熱血さん。消えて。

何億回でも言ってあげたいけど、大人という存在は媒体であって実在であってはいけないの。「○○先生に影響を受けて先生を目指しました!ぼくも子どもの頃のぼくみたいな生徒を救ってあげたいです!」なんてステキな物語が世界を支配してて、それはもう全米どころの騒ぎじゃないたくさん人たちが涙してるんだけど、なんか救いようがないよ未来の先生さん。価値観なんてくだらないものじぶんで選ばせて。アナタと同じようなくだらない人生送るなら消えるよボク。影響を受けた人、アナタじゃ嫌なの。

ボクが尊敬する先生という人がこの世に何人かいて、総じてなにを教わったかなんて忘れたし、なにかボクに影響を与えるようなことばをもらった記憶はないんだけど、とても尊敬してて、何でかって聞かれたらとても難しいんだけど、少ない語彙を振り絞って言うなら、責任を全部投げかけてくれたからだと思う。「お前の好きなようにやれよ」って無責任なようでハイパー責任に満ちた考え。知識とか価値観を押し付けるんじゃなくて、知識をどうやって得るか、価値観をどのように作りあげていくかを教えてくれたんじゃないかなって。わかんないけど。

「餓えてる人に魚をあげますか?魚の釣り方を教えてあげますか?」って大好きな言葉があって、尊敬する先生たちは魚の釣り方をボクに教えてくれていたような気がする。じぶんのこと「恩師」とか思わなくていいよ、忘れ去ってくれたら光栄だって態度が本当に大好きだったよ。ボクもそうなりたいなって思いながら偉そうに子どもたちに勉強教えてたけど、ボクこと忘れてくれてこの世界を少しでも上手く生きれるようになってたらこのうえなく嬉しいね。「恩師」「恩師」「恩師」。経験と価値観をたくさん与えてくれるすっごい「恩師」の人たちは宗教家にでもなればいいね。たくさんの人を救ってあげて。きっと素敵な世界をつくれるよ。

釣りの話。釣りっていうのは本当に大人を媒介に子どもに知識と経験を体験させてあげられる最高の行為だし、大人なんていなくても最高の教育を与えてくれるものだと思ってる。結局、魚が釣れるか釣れないかなんて運次第だし、まあ可能性はあげれるんだけど、本当にそれはじぶんの感覚でしか体得できるものじゃなくて、とにもかくにも誰かがどうこうしてあげれることじゃない。「あの場所に投げろ!お前のために言ってるんだ!」なんて言っても、お魚さんにしらんぷりされることのほうが圧倒的に多くて。そんな簡単に恩師になんてなれない。

釣りがなによりも素晴らしいのは、関連する知識をじぶんで構成できるようになること。大潮とか中潮とか潮の動きが激しいときのほうが、釣れるっていうのは定説で、「なんでなのかな?」なんて思って小さいとき調べてみたことがある。「まず潮ってなに?」とか。「どの魚がどの場所にいる」とか。「この魚はこういう習性だからこういう季節にこういう場所に」うんぬんかんぬん。

一日中釣りしてるときに「なーんで太陽は東から出て西に沈むんだろうね?」とか「なんで海の深さって変わるか知ってる?」なんて言ってくれた父親のこと、本当にすごいと思うよ。釣った魚はそのうち死ぬし、「ああ、これ食べるんだな」なんて色々考えてたし、いまでも考えてる。「食べる前はいただきますでしょ!」じゃなくて、ああ、さっきまで生きてた魚食べるんだよね、いただきますって。溢れ出る感情が本当に素敵だね。知識も経験もいっぺんに。最高の贅沢。

釣りに一切貶す要素なんて存在しなくて褒めてばっかだけど、もう少しだけ褒めさせて。釣りをしてて一番よかったなって思うときのこと。釣れる時は釣れるし、釣れないときは釣れないときのこと。やっぱりこれに尽きると思うんだけど、いくら頑張っても上手くいかないときもあるし、なんか適当にやったら上手くいっちゃったってときもある。「これなんかに似てるな?……人生じゃん!」ってほど年を重ねた実感はないけど、人生じゃん!って言っとこうかな。

「どうやったら魚って上手く釣れるの?」なんて聞かれることは多々あって、それっぽいアドバイスはするんだけど、結局のところ運次第だとしか言えない。可能性をあげる提案をすることはできるんだけど、それが正しいのかなんてわからないし、お魚さんの気分次第。「どうやったら幸せになれるの?」なんて聞かれることはめったにないけど、まあ結局のところ魚釣りと一緒。気持ちと運次第。ボクが釣りに関してアドバイスできることなんてほとんどない。人生に関してはもちろんのこと。

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」ってヴィトゲンシュタインが言ってたけど、その言葉、釣りを通して実感したよ。釣りはいまもボクを成長させてくれてて、釣りには感謝してもしきれないところ。まあ釣りも人生もよくわからないけど、釣り糸を垂らさないことには始まらないし、釣り糸垂らすことで全てが始まるような気がしてる。「可能性をあげるアドバイスだけはできるよ!」って熱血さんたちみたいな熱量で言いたくなっちゃう。語りえぬものについて、沈黙してもいいけど、釣り糸だけは垂らそうよって。まあなんでもいいからやってみようよって。よくわからんけどお魚釣れちゃうことなんてたくさんあるしね。釣れた時の顔みんなとっても素敵だよ。なんでもいいからやってみようよってボクのなかの熱血先生が言ってる気がする。