上から目線

上から目線と言うことばが、物心ついたときから今の今まで理解できなくて、たぶんこれからもわからないんだと思う。「あの人は上から目線だよねぇ~」とか「上から目線で言わないでよ!」なんて言われても理解不能。Cー3POみたいなぎこちなさで「うんそうだよね」とか「あ、ごめんね」とか言ってるし言い続けると思う。

 

一回だけ「え?なんで?」ってそう言ってきた人に聞いてみたことがあるんだけど「え、なんかそうじゃん」って言われちゃって、もう一生聞かない!聞いてやるものか!

 

「こいつ馬鹿だな」とか「そんなこともしらねぇのかアホ」とか思うことはあるけど、人がじぶんより下なんて思ったことが無いって言うのが大きい?人のこと馬鹿にしすぎててずっとボクが上から目線なの?なんて色々考えるけど、結局答えは出ずじまい。

 

「あの人上から目線だよねぇ」がわからないのはいいことだと思うんだけど、「上から目線で言わないでよ!」がわからないのはよくないなぁ~なんて思ったりする。けど、本当にわからないものはわからないよって。これも上から目線?

 

「具体的に言って!」って言うのがボクの癖で、いいときもわるいときもあるこの癖。「曖昧な世界を愛してる」なんて言ってるやつがなんなんだよってじぶんでも思うことがあるけど、具体が支えきれない曖昧を愛してるってことばで弁解させてください。

 

とにかく「上から目線」について考えはじめると本当にわけがわからなくなって、ここまでくると帰納的にしか理解できない領域だと思ってる。みんなは演繹的な感覚としてこの感覚を持ち合わせてる感じがして、すげーなって感じ。

 

具体例でも演繹的な理論でもいいので、教えてください。本当に困っています。いや、困ってはいないんだけどモヤモヤ。このモヤモヤは快感じゃないけど、ボクの性格を表してる?なんて思う。

 

これでいいかどうかはよく知らないけど、「上から目線」について詳しい人いれば是非。詳しくなくても是非。

 

本当に理解できないことも世の中にはあって、ボクの場合それが「上から目線」ということばであるって話でした。

 

短いけどこれで終わり。

 

あたまのなかわけわからないことになっているので。上から目線に対する意見バンバン募集中です。

 

 

数学と女の子

村上春樹の「海辺のカフカ」が好きだ。四国の森(?)のなかで日本兵と遭遇するシーンがこの上なく好きなんだけど、なんでかと言ったら結局四国の森というものを想像できるからだよねぇーなんて思ったりしてる。

 

イメージの共有ってボクはこれを呼んでいるんだけど、それっていうのはつまるところ、じぶんの経験や体験と結びついていて、ボクの父親が四国出身でボクが何回も行ったことがある場所がクリスタルクリアに浮かぶ。

 

ボクがSF小説を読むときに浮かぶのは結局のところ、科学雑誌の「ニュートン」で見た図や写真であったり、小さい時に読んだ星座の図鑑だったりする。

 

全く未知の文字に出合っても、想像できないのが悩みではあるんだけど、それってのはまあみなさま共通のことなのかもしれないなぁーなんて思ってじぶんを納得させているところがある。

 

友達「アーモンドフロランタン作ったよ!」ボク「?????」

がまさにこれ。

 

想像の放棄とかいうカッコイイ言葉をくっつけてみたいけど、ボクは未知のものに対しての想像を巡らすという行為が本当に苦手で、すぐにイメージを求めてしまうところがある。

 

宗教とかが苦手なのもこのせいだと思ってる。「キリスト」「ムハンマド」「ブッダ」なんて言われても、、、なんて感じ。そのくせ、文字からイメージを紡いでいくのは大好きで、「帝国主義とはうんぬんかんぬん」「数理ファイナンスとはうんぬんかんぬん」みたいにお酒飲むといつもこんな感じで「語って」しまうじぶんがいるのも事実。

 

数理ファイナンスというものは本当にわけがわからなくて、大好き。イメージがつかめなさすぎてムカつくけど。じぶんの手のひらに一生懸命乗せようとしてるのに一生乗ってくれなさそう。高嶺の花を追ってるじぶんに酔ってる感じ?また酔ってるね。

 

数学は神が宇宙に書いたアルファベットだ。なんて昔の偉い人が言ってたような気がするけど、わけわかんなさすぎ。数学大嫌いだけど大好き。音楽のこと調べても結局数学使った説明がでてくるし、もうなんか世界は数学に支配されているような絶望的だけど美しいみたいな変な気持ちになる。妖艶?のイメージと重なるのかな?数学is妖艶。

 

「妖艶さを身につければ最強だね」なんて女の子に言ったことがたくさんあって、まあなんか妖艶さなんてものは圧倒的な年と経験を経て身につくものだと思ってるから、逃げ道が多いけど有効な発言なんですよねって感じ。妖艶さなんて言ったけど他のキミは認めるよ、あとは妖艶さだけだよね。みたいな。せこいね。ごめんなさい。

 

数学も女の子もいくら勉強しても手のひらに乗ってくれなくて、まあ手のひらにすぐ乗るものなんていらないよねって。納得させてるのかホントにそう思ってるのかはじぶんでも謎。謎なのがいいよね、なんてまた適当に濁してしまう。

 

想像できるものは容易に操作できるけど、想像できないものは操作できないってのがボクの持論としてあって、想像できるものなんてじぶんがこれまでに経験してきたくだらいものの集まりなんだよね。魅力なんて感じない。あーいえばこーいうの世界観に魅力はないんだねって。

 

やっぱり数学妖艶。女の子も妖艶?にしても両者超魅力的。なんて思ったりしてる。

 

「先生数学なんてやって何の意味があるの?」なんて聞いてくるのは全員女の子で、まあ数学の意義を説明したところで、というかそんな説明なんて求めてない癖にずるいなってずっと思ってた。「数学はあんたたちのことだよ」なんて言ったら超キモイし。

 

女の子の気持ちはよくわからないし、まあわかってしまったらつまらないし、数学についてもボクはよくわからないまま人生を終えたいと思ってる。わかっちゃったらつまらないしね。

 

明確なイメージというものがビジネスとかいう現場では求められるらしいけど、明確なビジョンを持った経営者さんが称賛されるらしいけど、う~ん、あんま魅力的ではないよね。マーケットもわけのわからん怪物で、「じぶんも金持ちになれるかも!」みたいな感じで人を惹きつけるわけだし、本当はぜんぶ曖昧なんじゃないかなって。

 

村上春樹が描きたかった高知の森の中も、ボクのイメージするものと一致する確率は非常に低いわけで、結局じぶんの持っていたものと他人が持っていたものが一致するような錯覚が快感なんじゃないかなって思うよ。ぜんぶ曖昧なくせに本当に身勝手だね。

 

ぜーんぶわけわかんなくて、ぜーぶん意味不明な世界が広がってて、少しでも理解しようと日々努力してるつもりなんだけど、報われない世界もあるんだよ、報われないのが世界なんだよ、ってわかった気になって諦めるってことが大人になるってことなのかな。ボクはまだまだ大人じゃないし、このわけのわからない世界が大好きだけど。

 

曖昧曖昧曖昧。「だまってないではっきり言ってよ!」なんて言われても、はっきり言ったら半端じゃない怒りを表すこと、ボクは知ってるよ。わけわかんないよ。わけわかんないから、大好きだけど。

 

可愛いからの開放が妖艶への道だってわかった女の子が女性になるんだね。具体的な世界から曖昧の世界へ飛び込むんだ。女の子は曖昧な癖して具体的なものを求めるけど、女性は妖艶とか言うわけのわからん世界でしっかりと存在してる感じ。数学と同じ。あいつらわけわかんない癖してしっかりと存在してやがる。

 

数学と女の子はどっちもわけわかんないけど、真逆だね。女の子は数学になって初めて女性になるんだよって、わけわかんないこと言ってあげる。

 

神は女なんだ、まずそこから話を始めないと、ってボブディランが言ってた。数学は神が宇宙に書いたアルファベットだし、なんかもうわけわかんない。タマゴが先?ニワトリが先?数学が先?女性が先?

 

女性が神様だから女性が先かな?

 

わけわかんない世界に魅力を感じるし、そのイメージを得るためにまあ色々経験しようかななんて、思ってるよ。

「恋に、最後の希望をかけるような、くだらない少女にならないで」って大好きな詩人が言ってた。

女性は男が必死こいて正解を求めるような、イメージなんかできないような、わけのわからない神様でいてください。

 

数学と女の子のわけのわからない話をしました。

 

 

 

 

先生の話

「今年の3月いっぱいで塾閉じることにしました」って塾長さんに言われて、「ああ、そうなんですか。お疲れ様でした。」なんて思ってたけど、とっても寂しい気持ちになってきた。彼女に初めて会ったのは小学5年生のときで、ボクが住んでいるマンションの一室でやってる塾に緊張しながら行ったのをぼんやりながら覚えてる。そのころのボクは毎日毎日野球やったり木に登ったりして、「勉強なんてしないぜ~木の上で食べるお菓子最高~!」って感じの子だったし、幼馴染がいわゆる「お受験」のための塾に通い始めてから遊べなくなったのを寂しく思ってたのをよく覚えてる。

「とりあえず塾ぐらい行きなさい」ってことで兄も姉もお世話になった先生のところに連れて行かれたんだと思う。小学生のときの塾での思い出とかいうものは、思い出せる範囲ではほとんどなくて、「めんどくさいけど、怒られるから行くか」ぐらいの気持ちだった。まあボクはお受験をするでもなく、近所の公立中学に進んで、塾も変わらず小学生のころお世話になってたところに通い続けることになった。

でも中学生になると状況が一変した。喧嘩と軽蔑と自己顕示の世界。「お父さんのパンツと一緒に洗わないでって言ったじゃん!」の世界。思春期。「思春期だからねぇ~」なんて言われるのも嫌で、褒められるのも嫌い。怒られるのはもっと嫌い。嫌われたら即死亡。みんなみんな世界のことなんてなんにも知らないクセに世界のすべてが嫌いになる。ボクもみんなみんなの例外にはもれず、すべてのことに腹を立てたこと今でもすぐに思い出せる。

学校は喧嘩と軽蔑と自己顕示に溢れてるし、塾もまったく同じ、喧嘩と軽蔑と自己顕示。「馬鹿死ね!」なんてのは生易しいほうで、なんかもう狂気にしか満ちていなかったよ。団結するのは女の子のパンツが見えてるときぐらい。もう笑っちゃうぐらい最低で最高だったよね。「若いころはヤンチャしてました」みたいなこと、大人がよく言ってるけど、ボク的にはまだまだボクは若いと思ってるし、同年代もまだまだ若いよねって感じ。でも、同い年の人でも「若いころはヤンチャしてました」って言う人はいっぱいいる。中学時代の頃の話する人が多いね。ボクとしては「ヤンチャ」というより「狂気」「意味不明」って感じ。

でもそんな「ヤンチャ」してた人たちにとっても、大人は最強で、その最強がムカつくから最強のフリして大人の困るようなことばっかやってたんだろうなって思うよ。少し可哀想だけどめんどくさいね。ここで超めんどくさい人たちが登場するのが学校とかいうところの素晴らしいところ。最強やめちゃう先生。「先生も若いころはなぁ~」「先生はお前の気持ちわかるぞ」「先生も人間だからな!」じゃなくてさ。最強でいてよ。最強じゃなくてもいいから最強のフリしててよ。アナタは人間でいてはいけない。

「生徒の立場にたって」とか生徒に言わないで、悟られないで。「生徒の立場にたって教える」なんてほんとうに当たり前すぎるし、「わたしは服を着て外に出ます」ってレベル。くだらない言葉で「恩師」になりたい先生、本当に心の底から消えてほしかったし消えてほしい。勇気とか希望を押し付けてくれるのはファンキーモンキーベイビーズだけで十分だよ。

中学校はホントに大人も子供も狂気に満ちてたけど、塾は少し違かった。ボクたちの目の前には最強の人が立ってて、いつなんどきでも最強だった。くだらない人生論なんて語らないで淡々と教えてくれる人だった。最強でムカツクから反抗してたけど、最強だから勝てなかった。負けました。すいませんでした。誠に申し訳ございませんでした。以後気をつけます。

んでまあアインシュタイン様の理論を無視して感覚の問題で言うと、時間というものは平等に経つもので、ボクも最強にならなければいけないときがきて、講師として「最強の先生」を目指し始めた。生徒としての思い出よりも講師として彼女に接した時の印象が強烈なのは、ボクが経験とかいうくだらないものを経たからではなくて、最強のウラガワを知ってしまったからだと思う。

どうすれば成績があがるか、なんてものは本当に生徒ひとりひとり違くて、お金をもらっている以上絶対成績はあげなくちゃいけないし、でも机に向かうのが困難な子も難関とか言われてるところを目指してる子もいて、家庭事情も人格の形成過程も全然違くて、「あーーーーーおれ子供育てたことねぇーよーーーーーたすけてーーーーー」ってずっとなってた気がする。けど、「人生を語る」とか言う本当にくだらない方法はとりたくないし、まあ語れるほどの人生もないし、とにかく塾長さんの真似に徹してた。

塾長さんは生徒の前だと本当に淡々と教える人だけど、ひとりひとりの家庭環境から性格からなにからなにまで把握していてやっぱり最強だった。最強のフリがもう天才的に上手かった。ボクも塾長さんに生徒さんのこと色々と教えてもらいながら、その子に合っててその子にとって最善策であろうと考えられる教え方をしようと心がけてたけど、やっぱり塾長さんにはぜんぜん及ばなかった。

中学生であろうと高校生であろうと小学生であろうと、ひとりひとりそれこそ膨張し続ける宇宙みたいなものが内側にも、もちろん外側にもあって、そこから最善の教え方と接し方を探るのは本当に至難の業だった。けど、四年間で少しはその技を身につけることができたんじゃないかなぁっと思ってる。塾長さんには絶対に及ばないけどね。

四年間、最強の大人と一緒にあれこれ悩みながら、それを生徒さん達には悟られないようにお仕事できたことは、本当にボクの誇りで、いまのボクがあっていいか悪いかの判断はみなさんにお任せするけど、彼女がいなかったらいまのボクはないと断言できる。人生の半分近くの時間本当にお世話になりました。感謝ばかり浮かびます。最強は少しお休みしてゆっくりしてください。っていう話。

ギャンブルの話

友人がマカオのカジノで負けたという話を聞いた。競馬狂のボクとしてはギャンブルの擁護をしておきたいのでギャンブルについて書こうかななんて思ってる。「競馬にはドラマがある」とか偉い人もそうじゃない人もみんなみんなテレビの中で言ってるけど、それは嘘だね、って断言してあげたい。「競馬にはドラマがあるって思いこみたいだけだよ」って言ってあげたい。

有馬記念のこと。2013年はオルフェーヴルが勝った。2014年はジェンティルドンナ、ドラマっぽいのはなにかなぁなんて思う時に浮かぶのがオグリキャップかな。みんな年の暮の最終レース、しかも人生(馬生?)最後のレースを有終の美で飾った馬たち。「最後の意地を見せる」ってのがみんなみんな大好きで、お馬さんにもそれを投影する、というかお馬さんじゃなくても引退試合とか最後の闘いってのは、魅力的に映るみたい。

落ち目の選手やお馬さんの勝利にじぶんも勇気をもらった!なんて人がいっぱいいて、それはそれは素晴らしいことなわけなんですが、、、ですが、負けた選手やお馬さんにも引退試合では拍手が贈られる。なんかへんなのとか思いながら拍手を贈ってるじぶんがいって、なんかへんなのってまた思う。

2015年の有馬記念なんてほんとにそれだよね、って。ゴールドシップっていう荒くれ者のお馬さんがいて、このときはそのお馬さんの引退レースだったわけですが、すげー強いんだけどすげー荒くれ者。気分次第で走る走らないが決まっちゃう馬で、まあ負けた。気分が乗らなかったんじゃないかってみんな思ってて、ボクも思ってる。「ゴールドシップらしい引退レース」ってボクは思ってて、お疲れ様って言ってあげたい。けど、「ゴールドシップ」のこと知らなかったら「なんか白い馬が引退レースで負けた」ぐらいにしか思わなかった。

結局、「競馬にドラマがある」んじゃなくて「じぶんのなかで競馬をドラマにしてる」ってことに気付いて、「競馬にはドラマがあるんだよ!」なんて力説しても「ふ~ん」みたいな返事が大多数なことに妙に納得。「パチンコにはドラマがあるんだよ!」ねーよ。「ラジコンにはドラマがあるんだよ!」ふ~ん。「テニスにはドラマがあるんだよ!」ちょっとわかる。「野球にはドラマがあるんだよ!」超わかる。

結局、どのようなものであってもじぶんの世界をじぶんでつくりあげるための道具でしかなくて、それを好きなじぶんを正当化しようと必死こいてるだけ。もちろんボクも必死こいてる側。超必死こいてる。「競馬にはドラマがあるんだよ!」って言い続けたい側。寺山修司まで持ち出して言い続けたい側。

ってここまで、書いて競馬けなしてるようにしかみえねぇーよって言われるし少し思ってる。でも、「○○にはドラマがある!」って言ってる人とか思ってる人は競馬やってるボクと同じだとも思う。結局、フィクションをつくりあげるのが大好きで、フィクションにすがりながら生きてるんじゃないかなぁ~って、みんな。

安定した日々の生活が幸せと気付いたよ。なんて歌ってる歌があるけど、この場合安定がドラマ。祝安定ドラマ化。競馬。不安定。祝不安定ドラマ化。って感じ。競馬が批判されるのはギャンブルだから。そうギャンブルに入れ込んじゃうから。ギャンブルはザ不安定なんだから、安定した生活と混ぜてはいけない。不安定を安定へ。ドラマはある。現実的ではない。ドラマ化決定。

ギャンブルは余剰資金でやるのが素晴らしくて(というか当たり前)、「人生を懸けた大博打じゃあああああ!」なんてやって勝てる人ほぼいない。ほとんど人生終わる。けど、なんか人生は続いて、また「人生を懸けた大博打じゃあああああ!」やりたくなる。また人生終わる。けど人生は続いて、そのうち本当のおわりがきて、燃やされて埋められる。

結局、みんなの人生のエンディングは燃やされて埋められる。ここは万人共通で、それまでのドラマは違えど、エンディングは同じ。人と違うこと、って言う記事をこの前書いたけど、エンディングが同じだから人と違うことしたいし、世界にもじぶんにもドラマを求めたくなるんだと思う。ドラマを求めない人は本当に強い人だと思うし、ボクにはなれない。

じぶんの人生もドラマにしたい!じぶんの周りの世界をドラマだらけにしたい!!っていっつも思ってて、いまもたぶん思ってる。思ってるからこんな文章を書いてるんだと思う。ぼくらはみんな生きている、生きているから歌うんだ。なんて名曲があるけど、その逆。歌ってるから生きてるって感じたいし、かなしいから生きているって感じたい。

人生はドラマに満ちているんじゃなくて、どれだけドラマを作れるか感じられるかだと思ってる。作れなかったらなんもないし、感じられなくてもなんもない。「生きてるだけで素晴らしい」なんてみんな言うし、それだけでもドラマかもしれない。「競馬にはドラマがある!」って感じられるけど、「パチンコにはドラマがある!」に「ねーよ」で返してしまうボクはたぶん少し損してる。けど、いつどこでパチンコにドラマを感じるかはわからないわけで、まあ「ドラマあるのかもね」ぐらいには思っておこうと思ってる。いや、ねーんだけど。作ってるだけなんだけど。

なんてことを考えながら、ドラマ作るために書いた記事でした。「このブログにはドラマが!」「ねーよ」って言われないような文章書けるようにがんばろうかなって思ってます。いろんな人のこといろんなもののことを「ドラマチック」に書ければいいよねって思います。

釣りのこと

子どもに習わせるなら何がいいか。なんて話を子どもを授かる予定もないのに話すことが結構あって、習い事って言えばそろばんとかお習字とかピアノかなとか思ったりする。でも結局釣りを教えればいいという結論にいつも至る。ボクが釣りを始めたのは小学校二年生のころぐらいだったと思うんだけど、特にきっかけとかはなくて父親と試行錯誤しながら仕掛けを作ったりエサつけてたような気がする。釣れるときは釣れるし、釣れないときは釣れない。みたいな無常感が小学生ながらすごく好きだったなって、無常なんてことば知らなかったときのこと思い返してる。

釣りをしててとっても不思議だったのは、父親がボクに魚を釣らせようとやっきになってたことで、「どっちかが釣れればいいじゃん、変なの!」とか思ってたけど、この歳になって初めて釣りに行く人を連れてるときに彼の気持ちがとてもよくわかるようになった。「せっかく来たんだから一匹ぐらい釣ってほしいな!」って。ボクも少しは大人になったのかなって、ほんの少しだけ父親のこと思い出しながら感じるよ。

大人という存在は知識や経験の媒体であって、直接それらを押しつけちゃいけないなって、じぶんが先生とかいう立場のしごとを4年間やって実感してて、ボクが「熱血教師」とかいう暑苦しいだけで無意味な存在のこと「教師(ではなく講師だけど)」という立場になってますます嫌いになったのもこの実感のせい。熱血さんたちは「お前のために言ってるんだ!」とかよくのたまってたけど、オナニーはお家でしてほしいなって中学生のときから思ってたよ。熱血さんに魅了されちゃって教師を目指す未来の熱血さんがいるの最高にクールだし、ボクの人生を懸けて否定してあげる。サヨウナラ。熱血さん。消えて。

何億回でも言ってあげたいけど、大人という存在は媒体であって実在であってはいけないの。「○○先生に影響を受けて先生を目指しました!ぼくも子どもの頃のぼくみたいな生徒を救ってあげたいです!」なんてステキな物語が世界を支配してて、それはもう全米どころの騒ぎじゃないたくさん人たちが涙してるんだけど、なんか救いようがないよ未来の先生さん。価値観なんてくだらないものじぶんで選ばせて。アナタと同じようなくだらない人生送るなら消えるよボク。影響を受けた人、アナタじゃ嫌なの。

ボクが尊敬する先生という人がこの世に何人かいて、総じてなにを教わったかなんて忘れたし、なにかボクに影響を与えるようなことばをもらった記憶はないんだけど、とても尊敬してて、何でかって聞かれたらとても難しいんだけど、少ない語彙を振り絞って言うなら、責任を全部投げかけてくれたからだと思う。「お前の好きなようにやれよ」って無責任なようでハイパー責任に満ちた考え。知識とか価値観を押し付けるんじゃなくて、知識をどうやって得るか、価値観をどのように作りあげていくかを教えてくれたんじゃないかなって。わかんないけど。

「餓えてる人に魚をあげますか?魚の釣り方を教えてあげますか?」って大好きな言葉があって、尊敬する先生たちは魚の釣り方をボクに教えてくれていたような気がする。じぶんのこと「恩師」とか思わなくていいよ、忘れ去ってくれたら光栄だって態度が本当に大好きだったよ。ボクもそうなりたいなって思いながら偉そうに子どもたちに勉強教えてたけど、ボクこと忘れてくれてこの世界を少しでも上手く生きれるようになってたらこのうえなく嬉しいね。「恩師」「恩師」「恩師」。経験と価値観をたくさん与えてくれるすっごい「恩師」の人たちは宗教家にでもなればいいね。たくさんの人を救ってあげて。きっと素敵な世界をつくれるよ。

釣りの話。釣りっていうのは本当に大人を媒介に子どもに知識と経験を体験させてあげられる最高の行為だし、大人なんていなくても最高の教育を与えてくれるものだと思ってる。結局、魚が釣れるか釣れないかなんて運次第だし、まあ可能性はあげれるんだけど、本当にそれはじぶんの感覚でしか体得できるものじゃなくて、とにもかくにも誰かがどうこうしてあげれることじゃない。「あの場所に投げろ!お前のために言ってるんだ!」なんて言っても、お魚さんにしらんぷりされることのほうが圧倒的に多くて。そんな簡単に恩師になんてなれない。

釣りがなによりも素晴らしいのは、関連する知識をじぶんで構成できるようになること。大潮とか中潮とか潮の動きが激しいときのほうが、釣れるっていうのは定説で、「なんでなのかな?」なんて思って小さいとき調べてみたことがある。「まず潮ってなに?」とか。「どの魚がどの場所にいる」とか。「この魚はこういう習性だからこういう季節にこういう場所に」うんぬんかんぬん。

一日中釣りしてるときに「なーんで太陽は東から出て西に沈むんだろうね?」とか「なんで海の深さって変わるか知ってる?」なんて言ってくれた父親のこと、本当にすごいと思うよ。釣った魚はそのうち死ぬし、「ああ、これ食べるんだな」なんて色々考えてたし、いまでも考えてる。「食べる前はいただきますでしょ!」じゃなくて、ああ、さっきまで生きてた魚食べるんだよね、いただきますって。溢れ出る感情が本当に素敵だね。知識も経験もいっぺんに。最高の贅沢。

釣りに一切貶す要素なんて存在しなくて褒めてばっかだけど、もう少しだけ褒めさせて。釣りをしてて一番よかったなって思うときのこと。釣れる時は釣れるし、釣れないときは釣れないときのこと。やっぱりこれに尽きると思うんだけど、いくら頑張っても上手くいかないときもあるし、なんか適当にやったら上手くいっちゃったってときもある。「これなんかに似てるな?……人生じゃん!」ってほど年を重ねた実感はないけど、人生じゃん!って言っとこうかな。

「どうやったら魚って上手く釣れるの?」なんて聞かれることは多々あって、それっぽいアドバイスはするんだけど、結局のところ運次第だとしか言えない。可能性をあげる提案をすることはできるんだけど、それが正しいのかなんてわからないし、お魚さんの気分次第。「どうやったら幸せになれるの?」なんて聞かれることはめったにないけど、まあ結局のところ魚釣りと一緒。気持ちと運次第。ボクが釣りに関してアドバイスできることなんてほとんどない。人生に関してはもちろんのこと。

「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」ってヴィトゲンシュタインが言ってたけど、その言葉、釣りを通して実感したよ。釣りはいまもボクを成長させてくれてて、釣りには感謝してもしきれないところ。まあ釣りも人生もよくわからないけど、釣り糸を垂らさないことには始まらないし、釣り糸垂らすことで全てが始まるような気がしてる。「可能性をあげるアドバイスだけはできるよ!」って熱血さんたちみたいな熱量で言いたくなっちゃう。語りえぬものについて、沈黙してもいいけど、釣り糸だけは垂らそうよって。まあなんでもいいからやってみようよって。よくわからんけどお魚釣れちゃうことなんてたくさんあるしね。釣れた時の顔みんなとっても素敵だよ。なんでもいいからやってみようよってボクのなかの熱血先生が言ってる気がする。

孤独について

「いつもそばにいる幸せはある意味そんなもんで、ある意味ひとりぼっちなもんなんだよ」ってフィッシュマンズが歌ってた。ああたしかにそんなもんだなって、わかったふりしたのよく覚えてるよ。海外旅行がすごく好きで、たくさんって言っていいほどじゃないけど、色々な国に出かけた。つまみ食いみたいな観光は正直あまり得意じゃなくて、ひとつの街に居座っているのが好き。ディープなところを知りたいとかじゃなくて、その街と一体化するような感覚が好き。一体化したうえでの疎外感最高にクール。海外旅行で一番好きなのって世界遺産を見て感動したり、美味しいもの食べてテンションあがったりすることじゃなくて、「ちょっとタバコ吸ってくるね」って言って宿の外でタバコふかしてる瞬間なんだよね。

「あなたは一人じゃない」。ちまたに溢れてる素敵なことば。「一人にしてくれよ」って思うのは贅沢病なのかな?「自分探し」だって。日本には自分がいなかったのに海外にはいっぱいいるんだね。旅行に意味を求める人だいっきらいってずっと言ってる気がするね。意味なんてなくていいんだよって、お酒を飲んで言ってくれる人大好き。お酒飲んでないと少し引いちゃうかもしれないけど。旅行に意味を求める人だいっきらい、何億回でも言ってあげたい。「Connecting the dots」なんてアメリカの偉い人が言ってたの思い出した。点と点をつなぐんじゃなくて点と点がつながるのがいいねって思うよ。

バックパッカーって人たちが世の中にはいっぱいいて、旅行中に出会うとほぼ100%話しかけてくる。さながらポケモンバトル。「あなたは一人じゃない」なんて言葉、嘘っぱちだってわかってしまって怖いんだね。世界が阻害してくれてるんだから、おとなしく阻害されれば楽だと思う。たくさんの経験であなたの世界観変わるといいね。点と点がつながるんだ。本当に素晴らしいことだと思うよ。

いつもそばにいる幸せはある意味そんなもんで、ある意味ひとりぼっちなもんなんだよ」って言葉を感じるために、ボクの海外旅行は存在していて、それは一人旅じゃなくても、というよりむしろ一人旅じゃないほど感じること。ひとりでいる時間がボクには必ず必要で、でもひとりでずっといるのは寂しいな、なんて微妙なくだらないバランスの上に立ってる。タバコタイムが終わればまた二人なんだけど、数秒でもいいからひとりの時間が欲しい。とっても贅沢。ひとりの時間最高。最高に贅沢。孤独最高なんてなれるのは海外だけだ。ずっと一緒にいるとひとりぼっちの感覚が強まってきて、二人でいるのにひとりぼっちみたいな感覚をぬぐい去るためにほんとうのひとりぼっちを求めてるんだと思う。 ホントにある意味ひとりぼっちなんだよ。

「あなたは一人じゃない」みたいな言葉本当に暴力的すぎる。ひとりでもいいじゃん、なんて言ってくれる人がいる世界にボクは生きていたいなって思うよ。孤独はよくないなんて発想、みんなが捨てれたらすばらしいね。「ひとりでもいいじゃん」「貴方にはわからないの」なんて言われても言い続けるよ。ひとりでもいいじゃん。タバコを吸いに外に出ればすべてがリセットできるよ。なんて素敵なことばを言える人になりたい。

 

人と違うこと

ついさっき大学の友達から大学院合格の知らせが届いた。大学院というと、大学に入る前は華々しい世界だと思っていたけど、大学院生さんとか先生とかの話をきいたり、見たりしていると、そうじゃないんだなって。大学院に行く気もさらさらないのに夢破れた気がしてた。

「文系の大学院なんて行っても就職できない」みたいなことを言う無責任な人が世の中にはたくさんいて、就職をゴールかなんかと考えてるような言動を取る人もいっぱいいる。ひとつのことに専念して勉強していく大学院に入るなんてほんとうにすごいことだと思うけどな。「人と違うことをしたい」って言ってた人が、方針もなくたくさんの会社を受けること、ボクは軽蔑するよ。どんな仕事も「人と違うこと」だし、「人と違うか違くないか」なんて気にせずにじぶんの好きなことをするような人がボクはこのうえなく好きだ。

「個性を尊重しましょう」。ボクたちの世代がうけていたゆとり教育の合言葉。個性を尊重するように強制する画一化だったってボクは知ってたよ。「じぶんの好きなことだけをやりなさい!」なんて言ってくれる大人はだれもいなくて、いろいろなひとがいていろいろなことがあってどれもこれも素晴らしい、ってことばっかり教えてくれたね。絵ばっか描いてる子がいると「少しは勉強もしなさい。絵でお金を稼げる人なんてほとんどいないの!」だって。結局ぜんぶできないとダメじゃん。もう個性なんて考えてる暇ないよ。じぶんの絵褒められたばっかだったのに。

年を重ねるごとに、「現実」とかいうものがボクたちに重くのしかかってきて、あーだこーだ言われたり、あーだこーだ言ったりする。いい高校生は一生懸命受験勉強して、いい大学に入って、いい大学生は一生懸命就職活動をして、いい会社に入るんだって。いい会社員になってからは、いい奥さん旦那さんを見つけて、しっかりとした子供を育てるのがいいんだって。たぶん「現実」なんてそんなもんだよ。

「現実」には絵もなければ音楽もない。みんな宿題の算数ドリルを解くように暮らしてる。そのときに出た宿題を解いていれば褒められるし、解かなくても忘れちゃってもなくしちゃっても軽蔑される世界だ。じぶんでじぶんに宿題を出すこと、それを解くことが許されない世界。本当につまらなそうな世界。じぶんでじぶんに宿題を出せる人、解ける人ホントに好き。じぶんで出した宿題が「現実」が出した宿題と一緒ならそれを解ける人も大好き。

大学院に行くなんてことは「現実」とはかけはなれたことなのかもしれないけど、本当にどうでもいいね。行きたければ行けばいいし、嫌になったらやめちゃえばいい。絵が好きなら絵を描けばいいし、音楽が好きなら音楽を作ればいい。「現実」なんて簡単にぶっ壊せるよ。って言い続けたいし、大学院に行く人たちにはぶっ壊し続けてほしいよね。もう「現実」なんてぶっ壊しちゃったんだし。「それが何になるの?」なんて聞かれても「わたしも知らない」って言い返せるようなタフさで。

「人と違うこと」したいならぶっ壊し続けないといけないのとってもだるいけどとっても楽しい。トマトの話。ボクはトマトが嫌いで、友達は大好き。「人と違うこと」してると嫌われるかもしれないけど、たぶんトマトみたいなもんだよ。大好きな人もいれば大嫌いな人もいる。否定されるとムカツクけど、まあトマトみたいなもんだよな。で乗り切れる。トマトなんて簡単に潰れるかもしれないけど、青いうちはまだ堅いよ。とにかくいけるとこまでいけばいいって、友達にもじぶんにも言ってあげたい。そんな気持ち。