それでも僕はアジカンが好きなんだと思う

2011年の3月11日は、高校を卒業し、浪人生活に入るということで遊びまわってた時期だったと思う。

いままで体感したことのない揺れやテレビで見た東北の悲惨な光景は6年経った今でも鮮明に覚えている。

たくさんの人が亡くなり、膨大な悲しみが覆い尽くした日。

しかし、幸い、僕の近しい人が被害を受けることはなかったため、頭の中ではわかっているけど、その悲惨さを実感できない自分がいる。

 

唯一、僕がいまも実感できることがあるとすれば、「3月11日はアジカンが変わってしまった日」ということぐらいだ。

 

僕がアジカンに本格的にハマったのは、高校に入学しバンドを始めたころ。

それまではアジカンの楽曲と言えば、アニメ「ナルト」の主題歌であった「遥か彼方」ぐらいしか聴いたことがなかった。

しかし、バンドでアジカンの楽曲をコピーし始めてからは、もうそれは狂ったようにアジカンの音楽を聴き漁った。

そして、アジカンに影響を与えたアーティストの楽曲をたくさん知った。

特にアルバム「ソルファ」は僕が人生で一番聴きこんだアルバムと言っても過言ではないと思う。

楽譜を読むのが苦手(技術的にも精神的にも)な僕は、耳コピでなんとなく演奏をこなしていたけど、ソルファの中に収録されている「Re:Re:」は耳コピしようにもあまりにも難しく、けど楽譜を読んでも難しいものは難しいし、結局、聴きまくってニュアンスを掴むしかなかった。

たぶん一生で一番聴きこんだ曲は「Re:Re:」なんじゃないかなぁと当時を思い出して、懐かしい気分に浸ることがいまでもある。

高校生という多感な時期にアジカンの素晴らしいメロディーと詩に狂ったように触れられたことは、自分の人生の選択に大きく影響してると断言していい。

 

そんなアジカンフリークだった僕も、2010年に発売されたアルバム「マジックディスク」を最後にアジカンの楽曲を聴くことをやめてしまった。

 

その理由は「政治」だ。

 

2011年の震災後、アジカンの楽曲はガラリとその音楽性を変えてしまった。

「政治」というものをいままでとは比べ物にならないほどの質量で楽曲に盛り込み始め、それゆえ、楽曲はいままで僕が好きだったものとは、まったく異なるものになった。

 さらにボーカルの後藤正文(ゴッチ)がツイッターをはじめとして、様々な場所で「政治的主張」をストレートに表現するようになったのだ。

 

「大好きだったアジカンは死んだ」「マジックディスクでアジカンは死んだ」「アジカンはクソになった」

 

もう数えきれないほど、アジカンに対する不満が僕の頭に浮かんだ。

 

そして僕は震災以後の楽曲を聴くことをやめた。

 

しかし、震災以前の楽曲はいまだに聴くことが多い。最近アジカンを聴いてるときに

「なんでアジカンは死んだんだ?」

という疑問が僕の頭をよぎった。

 

「そんなの簡単だよ、ゴッチが音楽家のくせに政治に口出すようになったからだよ。」

 

そんな単純な答えはもう何千回も用意して、何千回もそこで思考を止めていた。

 

「なんでアジカンは死んだんだ?俺はそれについて真面目に考えたことはあったのか?本当にアジカンは死んだのか?」

 

 

結論から言う。

 

アジカンは死んでない。いつまでも僕のロックスターだ。」

 

 

たしかに僕が好きな楽曲を提供してくれる「アジカン」はもう存在しないんだと思う。

 

でも、アジカンは楽曲を作り続け、世の中へのアプローチを続けている。そのプレゼンスはいまでも、いや、作りだされる楽曲を嫌いになってしまった今だからこそ、僕にとって大きなものとなっているのは事実だ。

 

僕はこれからも「変わってしまった」以前のアジカンを聴き続けるし、このうえなく好きでいるのもゆるぎない事実。

 

もっと本質的なことを言うと、「アジカンの世の中に対するアプローチ」が「僕が魅了されたような楽曲を作ること」から「僕が政治的だと思う楽曲を作ること」に変わっただけの話だとも思う。

 

アジカンは世の中へのアプローチをずっと続けてきたし、今もし続けている。

 

アジカンが政治的になってしまったことへの嫌悪感は、ただ僕が好きだった楽曲を作ることをやめてしまったことに起因するにすぎない。

 

さらに言えば、僕はアジカンが変わってしまわなければ震災のことをいまよりずっと軽く考えていたと思う。震災のことを一番思い出させてくれるのは、僕にとってはアジカンの楽曲だ。

 

震災以後のアジカンに文句ばかり言っていたけど、本当は「アジカンが変わってしまったこと」は僕にとって、とても大切なことだったのだと思う。

 

 

メロスに「政治がわからぬ」と言わせた太宰も、「メロスとセリヌンティウスの滑稽なほど純粋な友情」を使って自分の葛藤を表現した。

「あんな友情なんてねぇよ。ばかじゃねぇの」と酒に酔い馬鹿にした笑いを浮かべながらあの物語を書いていたとしても、「太宰はあれほどまで純粋な友情を心のどこかで求め、悩み苦しんでいた」と僕は思っている。

どこか大学生のときの僕の気持ちに似ていて、愛おしくもあり、哀愁をもって思いを馳せてしまう。

 

悩んでいても仕方ないのはわかっていても、悩むしかないときはあって、それは責められるものではない。

けど、なにかきっかけを与えてもらったなら声をあげて行動しなければいけないときもある。

 

「政治がわからぬ」と言いながら行動したメロス。

あざ笑う人はいるかもしれないけど、それでいいじゃないか。行動しないよりましだ。

僕は、太宰がメロスをあざ笑ったと思っている。けど、たぶん本当はメロスになりたかったんじゃないかなとも思う。

 

僕は今、色々なきっかけをもらって、大学生のときとは「変わってしまった」。

 

メロスになりたいとは微塵も思わないけど、世の中に対してどのようなアプローチをしていきたいかは定まって、そのために日々を生きていけてると思っている。

 

アジカンが変わってしまった」ことによって、「自分が変わってしまったこと」を、この文章を書きながらあらためて実感した。

 

アジカンは政治的になったと僕は思っているし、今後発表される楽曲を聴く予定もない。

 

でも、「音楽で僕を揺さぶったロックスター」は、いま違う形で僕を揺さぶっている。

 

たぶん、これからもずっと揺さぶられ続けるんだと思う。

 

あのころの僕の中のロックスターは、これからも僕の中のロックスターであり続けるんだと思う。

 

大好きな音楽を提供してくれるアジカン、僕の青春を彩ってくれたアジカンはいなくなった。

 

けど、震災のことを「今の気持ち」にいつまでもリンクさせてくれるアジカン、「今の気持ち」をしっかりと自覚させてくれるアジカンは、僕にとってやっぱり大切な存在だ。

 

楽曲は嫌いだけど。

 

それでも僕はアジカンが好きなんだと思う。

 

アプローチは違うけれど、できるだけ多くの人が「何度でもオールライトと歌える」ような世界にしていくために、できるだけ頑張って行きたい。

 

そのことを改めて実感した日記でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界中を敵にまわしても君を守るなんて言わないから、一緒に狂ったように世界を愛し尽くしてください。


「才能があるとかないとか言い訳しないで」なんてステキな枕詞があるけど、「才能がある」から始まる言い訳なんて聞いたことがないよね。


奄美大島で大変お世話になった友人から素敵な荷物が届いたり、仕事先の人が楽しい人だったり、些細なことでハッピーになれるボクは才能があると思ってるよ。


快適に生きる才能、たぶん一番大切な才能。


「もっと世界を愛して」なんてこと最近よく思う。


まあ世の中やら人間やら環境に不満を持つのはよくあることだし、ボクもそういうことはたまにある。


けど、よくよく見てみればハッピーになる要素なんて世界中に転がってて、それを見つけて拾い集めれば最強だし、最高だと思うの。


もっと世界を愛して


「愛すれば愛してもらえる」なんて都合のいいことはあんまないけど、「愛さないと愛してくれない」とボクは思ってる。


だからボクは世界を愛する。狂ったように愛するよ。


世界もボクを愛してくれてるな〜〜ってことが最近多いから、たぶん二人は恋人。


「友達と恋人の違いってなに?」みたいなことを友達に狂ったように聞いてた時期があったけど、今なら自信を持って言えるよ。


いつになってもいつまでも思い出を懐かしみ合えるのが友達。一緒に未来を見ていきたいと思えるのが恋人。


だったら世界とボクは恋人だね。


ボクと世界の未来を一緒に見ていたいもん。


「恋人から始まって友達になる恋が理想」なんて誰かが言ってたけど、ようやくこの言葉が腑に落ちた気がする。


死ぬ間際に「こんなことがあったね。あんなことがあったね」なんて思い出を懐かしめる関係なんて素敵すぎて死なんて悟れない。


世界とは恋人になれていると思うので、ボクは世界を愛しするし、世界もボクを愛してね、って感じ。


世界に恋する乙女のままいけるところまでいきたいね。


世界との恋に延々に酔ってる酔っ払いでいたいね。


「今日も楽しかったな〜〜」なんてハム太郎もいないのに、ふとつぶやいてた気分を文章にしてみたくなった日記。


大丈夫。世界はボクたちを愛してくれるよ。


だから世界を愛してあげて。


狂ったように愛してあげて。







俺たちは最高だ。わかるか?

たぶんボクの人生なんて飽きとの戦いなんだと思う。たぶん一生満足なんてすることがなくて、でもどこかで「完成したもの」を「ぶっ壊したい」衝動に駆られる。

 

完成なんてしてないくせに、しないくせに偉そうだって思うよ。

 

ボクは昔からなんでもすぐに完成させることを求めてる。たぶん今もそう。

 

仕事にせよ、関係性なんて曖昧なものでもそう。長い目で見ることが苦手なんだと思う。

 

俺たちは最高だ。なんて狂ってるやつかOASISしか言わない。ってなにかに書いてあったけど、ならボクは完全に狂ってる。

 

最高で最強で、いつでも世界一でいたい。

 

踊らせるなら俺がやりたい。YONCEが言ってた言葉に同意するような人間だ。

 

2016年は自分的には非常に大変な年だったと思う。本当に色々なことが起きた。正直めちゃくちゃきつかったけど、「地獄で何が悪い!」って言葉をそのままお借りして生きていたような気がする。

 

振り返るのなんて適当にやって「去年は厄年だったらしいな。んじゃしょうがねぇ。」って言う、今年の正月に会った親友の言葉でぶっ壊してあげる。

 

ボクがもやもやと過ごしてるうちに、同世代の方々はスターの階段を駆けのぼったり、必死こいて働いたりしてて、正直女性だったらこいつに惚れてるな、っていう友人が増えまくった。

 

「こいつにできるんだから俺にもできる」なんて貧弱な言葉は燃やしてあげる。「こいつに負けるわけがない、俺は天才だ」

 

ぶっ壊してあげた2016年がなければ、最高に最強な2017年はなかった。ボクの2016年は完成していたのかもしれない。

 

まあ今なら2016年のボクをなんとなくは褒めれるような気がする。

 

2017年はまだ一カ月半しか経ってないけど、最高に刺激的で最高に面白い。いろんなところから刺激が降ってきて毎日のようにやる気に満ち満ちてる。

 

いまはまだいろんな人に踊らせて頂いてる感じ。踊らせるところに早く行きたい。

 

自信はある。あとはやるだけ。飽きずにやるだけ。って感じ。

 

ボクはもう年齢的にも社会に出ざるを得ない状況であとには退けない。退く気もない。

 

最高で最強だから。周りに最強で最高な人たちが多すぎる。

 

たぶん社会に出たら、想像を絶するようなきついこともあるんだろうけど、まあ平気。続ければどうにかなる。続けることが苦手な人間が続けられたらあまりにも最強になれる。

 

2016年の後半には妙に悟ってしまって「心穏やかに、平穏に」なんて思ってたけど、まだそんな年じゃない。

 

俺は、俺たちは、ガンガンいけるぞ!とかいう最高の熱病に犯されてる。

 

俺たちは最高だ。わかるか?

 

一生満足なんかしてやるもんか!って感じ。完成はまだまだだからぶっ壊せもしないよ。

 

なんやらかんやら、くそみたいなことがあちらからこちらからやってくるのが人生だけど、俺たちは最高でいよう。

 

友達やら周りの話を聞いてると大変なことは馬鹿みたいにある。仕事や勉強、家族、恋人。悩んでも悩み切れないことがたくさん降り始める年齢なんだと思う。

 

ボクが24年間で得た少ない真実は「悩んでいてもなにも起こらない」ってこと。

 

書を捨て、街に出よう。なんて偉い作家が言ってたけど本当にその通りだとおもう。

 

街に出る、なんてたいそうなことじゃなくてもいい。歯を磨くとか、人にやさしくするとか。なんでもいいけど行動すべきだと思う。悩んでる時間は無駄だ。

 

そんなこと言っても悩んでしまうのが人間。だけど、ボクは言い続けたい。

 

大丈夫。俺たちは最高だ。わかるか?

 

アルコールも入ってないのに、アドレナリンに全身を犯されてるみたいな今の気持ちを書き残してあげたくなって書いた文章。

 

今年の抱負ってことで。

 

俺たちは最高だ。わかるか?

 

 

 

 

 

 

ぬるさについて

ぬるさは甘え、一生懸命働け。なんて言葉が飛び交ったり、ぬるぬるで働きたい。みたいな言葉が飛び交ったり、まあいつの世もそんな感じなのかななんて達観してる気になってる自分が大好きだよ。愛してる。

 

 

ぬるさの強要は罪なような気がするけど、厳しさの強要は罪になりつつあるね。

 

 

拝啓

 

いまの世の中を作り上げてきたと豪語するご老人方。

「いまの若者は根性が足りない」とおっしゃるお気持ちはいかがですか。

根性で戦えない時代を作り上げていただいたことに深く感謝いたします。

安らかに、できるだけ苦しんでお眠りください。

 

敬具

 

 

 

死んで。できるだけ苦しんで。なんて思うことはあったりなかったりするけど、ぬるさのなかで生きていきたいよね。

 

ぬるさとかいうものは厳しさなのかなとか思ったりすることもあって、ぬるぬる生きていくには、ちょっと苦しい人間関係を受け入れるというより、手放していくようなイメージがふさわしいんじゃないかなって最近思ったりする。

 

ぬるさのイメージはいつも、沼でジャブジャブやってる感じ。別にジャブジャブがくだらないと思うならサヨウナラも言わずにサヨウナラ。

 

君が世界に必要とされなくてもボクが必要としてたり、世界を敵に回してでも君を守る人がいるのにボクは敵にしかなれなかったりする世界が好きだよ。ぬるぬる。沼。ぬるぬる。

 

結局はぬるぬるでもキビキビでも、世界を認めてあげるかどうかの問題だと思う。ボクは世界を認めてあげるから、世界にはボクを認めさせてあげる。世界愛してる。

 

人間は苦労した分だけ成長するとかお猿さんみたいな人が言うことがあるけど、人間はぬるぬるした分どうなるのか知らないのは罪だね。

 

無知は罪なり。

 

まあお猿さんなら仕方ないか、とかボクを納得させてあげることはあるし、ボクは好きだよ、動物園。愛してる。可愛いし。くっせぇし。

 

「うぉーーーーーーやってやるーーーーーー!!!!!おれはやるぞーーーーー!!!!!」

 

みたいに、ゴリラみたいに意気込むことがないって言ったらウソになるけど、まあゴリラだよね。カピバラのほうが可愛いよ。

 

半身浴が健康にいいのはぬるいからだって信じたいし信じさせてあげる。副交感神経がうんたらかんたら。副交感神経も愛してるよ。なんなのか全然しらないけど。

 

人生は半身浴でいいんじゃないのなんて名言を置いとくけど、アツアツのお湯でもいいよ。混ざり合っても混ざり合わなくてもいいし。

 

多様性を認めるということは、結局のところカオスを許容することで、ヤリがピストルに変わる感じ。ヤリで戦ってる人のところにピストル持ってても許されるよう世界のことを言うの。

 

半身浴中に熱湯ぶっかけられるみたいな。多様性は罪だよ。単一化よりはマシだけどね。命賭けないと熱湯かけられる世界。

 

多様性は認めることはできるけど認められることは許されないよ。

 

多様性は罪なり。

 

ボクは認めてあげるけど。認められることはないよ。

 

ぬるさを持つということはたぶんすごく勇気のいることで、まあでもぬるぬるでいくけど、ぬるぬるを自認してやるぐらいの勇気ぐらいもっときたいよね。

 

人生最高教の教祖様は「ぬるさが最高」というけど、本当にその通りだよ。キビキビやんごとなきパーソンは無視してぬるぬるすればいいよ。

 

「難しい時代だ」とか眼鏡かけた偉そうな人が言う世の中だけど、難しいことなんてなんにもないよ。

 

「自分をもて!!!」

 

なんてこの世で一番難しいことを眼鏡をかけた人たちは言うけど、「自分なんて持たなくていい」って言ってあげる。死んでも言ってあげる。

 

「生きて」

 

なんて重苦しいセリフは必要ないよ。他人なんて否定しちまえぐらいのタフさをあげる。心をこめてね。

 

人と人がうんちゃらかんちゃら、なんて少年ジャンプを読みすぎたひとたちは言うけど、君の腕が馬鹿みたいに伸びないなら君の言うことなんて信じないよ。君のバカみたいな妄信は大好きだけど。

 

「ぬるぬる生きろ!!!!!」

 

ぬるい言葉なのに厳しさに満ちてるの、笑っちゃうね。いいよ。ボクは多様性を信じてるから。

 

大丈夫。上手くいくし上手くいかないよ。人生だもん。全部含めて最高なの。

 

わからない君は馬鹿だよ。

 

ボクも世界も愛してあげるけど。

 

言いたいことは愛をこめてもこめなくても言っても言わなくてもいいよ。

ぬるぬるの中ではなんでもありだよ。

 

 難しく考えたいときは難しく考えればいいし、お猿さんになりたいときはお猿さんになればいい。

 

世界に認められるより、世界を認めてあげて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人生は最高なんだよ

「人生は最高なんだよ」なんて言葉は時々、友人やらテレビやら本やらから聞こえてくる言葉で、ボクも「まあそうだよな~」とか「んなことないわ」とか思うことがあったり。人並みに聞いてきて人並みに感じていた言葉だと思う。

 

ボクが最近仲良くしてもらってる友達と言うか知らない人というか、なんなのか今までにない不思議な関係の不思議な女の子は「人生は最高なんだよ」しか言わない。

 

この子の「人生は最高なんだよ」は不思議な説得力と包容力を持っていて、何か本当に不思議で最高。最高。最高としか言いようがない。

 

「暗闇の中の一筋の光を追いかけろ!」みたいなネガ→ポジ言論じゃなくて、なんかもうポジティブで世界を包み込んでしまう感じが最高。最高。最高としか言いようがない。

 

この子の発言で「人生は最高なんだよ」以外にも大好きな言葉があって。「奇跡なんてものは出し惜しみするようなものじゃない。どんどん起こしていくもの」とかいう最強で最高の言葉。

 

「最強」とか「最高」とか「奇跡」とか、やんごとなきおごそかなお言葉をこんなに綺麗に簡単に使ってしまう人がこの世にはいるんだな。なんて感心しか浮かばなかった。

 

ボクのこの文章は詩人の最果タヒを意識して書いてるような気がするんだけど、タヒも「最強」「最高」「奇跡」みたいな言葉の使い手で、でもまあボクはその文章をなぞって想像力を働かせるしかないような存在。

 

でもこの言葉達の使い手が目の前にいて、実際に最高で最強で奇跡みたいな暮らしをしているのは本当に笑っちゃう。

 

「当たり前のことが奇跡なんだよ」とか「日常は奇跡に満ちてる」。こんなか弱い言説は早く死んでほしいけど「奇跡なんてものは出し惜しみするものじゃない」みたいなパンクで能動的な言葉は最高に大切にすべき。

 

なんやらかんやら悩んだりすることがあるけど、「人生は最高なんだよ!」って世界に言ってしまえば世界はなんかもう認めてくれる。少なくとも、今、ボクの人生は最高で、世界もそれを認めてるって確信がある。

 

とは言いつつ「最高じゃないこと」が出てくるのが人生とか言う最高なものでありまして。

 

んでも、「最高じゃない」ってわかった瞬間にそんなもの殺してしまえばいいだけの話。世界を殺すだけだから誰も何も傷つかない。最高の殺戮。殺してしまった世界だって他の誰かにとっては最高。その人はその世界で生きていけば最高。オケラだってアメンボだってみんな最高。

 

人生最高教の信者になってしまったボクとしては、教祖様であるその子はなんだか尊敬とか言うありふれた言葉では、形容できない存在で、まあ知らない人なんだけど。

 

「あなたに影響を与えた人は誰ですか?」みたいなアンケートがあったら、音速でその子の名前を書くレベル。偉人?先生?両親?そんなものクソ喰らえ。

 

人に影響を与える話をすると、まあボクもこんなのでもまあそれなりには人に影響を与えてきた方だと思う。けど、なんか認識できるのは「こじらせさせたなぁ~」みたいなものが大半で、与えてるのかもわかんないのに「影響受けないで!」なんてお子さんとクレヨンしんちゃんの放送を見てる立派な親御さんみたいな気持ちになったりする。

 

その点でも教祖様はまあなんかすごい。最高。知らない人だけど。お布施もしないしお祈りもしないけど。最高。バリカタ公務員だけど最高。

 

今ボクは確実に人生が最高で、やめられないんだけど、まあ周りにこんなこと思わせる最高の人になりたいなぁなんて考えてる。考えてはない。最高なところを見せるというか感じ取ってもらうだけでいい感じ。

 

「ほんとの幸せを探したときに愛し愛されたいと考えるようになりました。」なんて椎名林檎が歌ってたけど、探しても最高だし、探さなくても最高だし、愛しても愛さなくても愛されても愛されなくても最高だって言ってあげる。

 

なんか人生は最高だし、奇跡なんてものは出し惜しみしないからもう最強。

 

影響なんてたいそうなものは与えられるか知らないけど「人生は最高なんだよ」って何億回でも言ってあげる。人生は最高なんだよ。人生は最高なんだよ。人生は最高なんだよ。

 

最高に不思議な関係な最高な存在に捧げる、人生は最高なんだよってブログでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コインの裏表

滑稽さと真剣さはコインの裏表だなぁなんて思ったりしていて、そのことについて書こうかなぁっと思ってる。

 

ボクが図らずもなのか図ったのか知らないけどもう少しだけ通うことになってる大学は私学の雄とか呼ばれてて、まあ名前を出すと「すごーい」なんて反応が返ってきたりする。その「すごーい」を多々利用してしまった人間としては、「そんなことないですよ」なんて言葉も頭がおかしくなりそうなほどの思考を経て使うことになってる。

 

村上春樹が出た(いた)学部にボクはいて、入ってからは「女抱きまくって物書きになって中退する」みたいなこと真剣に思ってた。というか思ってる。どうしようもないねっていう最高の賛辞を贈ってあげるよ。

 

この大学の人たちは、自分たちを「クソ野郎(クソ女)」だと思われることに快感を感じるみたいで、まあ漏れもせずボクもそっち側の人間。どうしようもないねって言ってあげたいけど。その言葉も褒め言葉になっちゃうからどうしたものかって感じ。

 

坂口安吾が茶番に寄せて、で言ってたように、物事を突きつめた後に突然それが崩壊することが滑稽であって美しさを持っていると思っていて、まあなんかボクが期待したような世界ではなかったのが、この大学の文学部とかいうところ。

 

「おもしろいことをしよう!」とか言ってしまった時点で面白くないよ。たとえば、本当に女癖の悪い親友が本気で一人の女の子に恋をしたとか、本当に面白いよ。たとえばの話だけど。

 

結局優秀とか言われる人たちは未来に対するプランをたててしまうところが、ボクにとっては悪いところと言うか、面白くないなぁと思ってしまうところで、ボクも結局ある程度のプランは立ててしまう面白くない人なんだと思ってる。

 

ボクが観光とかが苦手なのもこのせいなのかな。プランとかいうものを立ててしまった時点で予想外のことがおこらないし、まあプランをカチカチに立ててそれをぶっ壊しちゃうようなことがおこるのも面白いんだけど、とか頭の中がぐちゃぐちゃになる。たぶん、これが面白いってこと。

 

結局、生きて行くということは、真剣さを持ち合わせないと実現しないことで、そこには滑稽さがヘドロみたいにひっつきまわる。それを面白いと思えるか否か、ってことが、「人生を楽しむ」とかいうヘドが出るような自己啓発本にも書かれているようなことなのかなと思ってる。

 

足の遅い人が全力疾走してる姿は爆笑できるし、ボクみたいな泳げない人が必死こいて25mプールでもがいてるのも超面白い。良い悪いとかいう価値観でさばけないこと、さばかないことが楽しいんだなって思ってるよ。

 

 まあなんかボクの仲のいい人たちも先日社会とか言うものに出てしまったみたいだけど、どうでもいいね。どうでもいいねって思っててほしいよ。結局。真面目に働いても滑稽さは付きまとうし、滑稽を装っても真面目さはつきまとう。

 

「自分の好きなようにやりなさい」って言ってくれる人は絶滅寸前だけど、少しは世の中にいて、ボクもそっち側の人間でいたいと思ってる。無責任だけどね、貴方の人生には責任持てないよ。じぶんで精いっぱい。

 

怖い上司もウザイ同僚も結局じぶんで精いっぱいなんだから適当にやればいいよ。コインの裏表なんだから。裏か表かなんて投げてみないとわからない。投げることはとても大切だけどね。ボクもぱっぱとコイン投げないといけないなって、まあ投げてはいるんだろうけど。

 

肯定も否定もない世界が好き。好悪はあるけどね。善し悪しでの判断が面白さを消してしまうよ。地獄とか言われてる社会に出たみなさん、適当にやってください。やりたければやればいいし、やめたければやめればいいよ。ぜんぶ面白いです。

 

「ふ~ん」って言ってあげる適当さだけは持ち合わせて生きているはずなので、決断のときは適当に話してください。「ふ~ん」って言ってあげます。がんばれるだけがんばってくださいって話。滑稽で最高にクールです。

 

 

 

 

 

 

微笑みの国

もう二度と行くか!と思いながらも三回目の訪問をしてしまったタイなんだけど、この旅行で考えたことについて書いていこうかなぁなんて思ってる。

 

友人の中には、日本が最高!派と海外最高!派がいるんだけど、まあなんかボクはどっちでもないかなって感じ。どっちもいいとこもあるし悪いところもあるし。日本のいいところは日本語が通じるってところ。それ以外はむさ苦しいかなって、よく思ったりする。海外のいいところは、適当なところかな。

 

タイでいつも感じることは、まあみなさんとてもよく笑いますねってこととみんな何して生きてるのかなぁってこと。日本にいると「銀行員してます」とか「普通の会社員してます」みたいなことばっか聞くけど、タイだと昼間っから路上で寝てる人いっぱいだし、「そこでなにしてるの?????」みたいな人であふれてる。

 

風俗嬢の話。「タイにいくよ~」って言うと、「女買うんだ!」みたいなこと言われることが多いし、タイに行ってきた人の話を聞くとそのたぐいの話が多い。「航空券代考えると日本でいいじゃん」なんて思ってしまうボクはあまりにも汚れているのかな。

 

今回の旅行では、路上の風俗嬢と話す機会があったんだけど、まあなんかすごいねって思った。詳細は省略したほうがいい。端的に言ってみると、まあすごい生い立ちだよなぁって実感。

 

発展途上国のこどもたちの笑顔は素晴らしい!」みたいなこと言う人が世の中にはたくさんいて、「別にどこでもだれでも笑顔はすばらしいよ」って反論したくなる。反論?包括?なんでもいいけど、「発展途上国」「子供」「笑顔」「素晴らしい」みたいな言説にはうんざりしちゃう。

 

子供の笑顔はどこでも素晴らしいし、大人の笑顔なんてもっと素晴らしいよって、何億回でも言ってあげる。怒ってる人より笑ってる人のほうが好き。たぶん君もそうだよって。

 

貴賎はないけど、あえて比較してみようとするなら、タイの人たちは「生きてる」って印象。「生きてる」人ってのは本当にタフで本当に尊敬。

 

ボクのまわりの人を見るとラベリング大好きマン、ウーマンにあふれてる気がするのはたぶん気のせいじゃなくて事実だとおもってて、「自由に生きるんだ!」みたいなひとも結局、企業とか結婚とか家庭とかにじぶんからラベリングされていく。

 

つまんなそうだなってボクは思うよ。否定も肯定もないけどね。

 

タイも日本も変わんないと極論思っていて、環境によってひとの考えなんて簡単に変わってしまうものだよってじぶんにもみんなにも言いたい。あたりまえだけどね。

 

だからこそ「生きる」という普遍的なテーマを淡々とこなすことが大切なのかなとか考えたりするよ。

 

「とにかく生きてみなよ」としか思わないのが最近のボクの感情を支配している言葉。

 

海外でも日本でももうなんでもどこでもだれでもいいけど、じぶんが生きたいところで生きていくのがいいと思うよ。

 

「認識のうえでの諦観」とかいうボクが考えたわけのわからない言葉が、みんな大好きな「グローバル人材」じゃないかなぁってジャックダニエルと一緒にふわふわ考えてる。

 

風俗嬢でもなんでもいいよ。生きているひとはみんな尊敬されるべきひとだと思うよ。

 

海外に行くと価値観が変わるとかいうけど、価値観から自由になりたいよね。価値観なんてくだらないもの、その国が捨て去ってくれると嬉しいね。

 

海外大好き!日本大好き!みたいなひとになれる日がボクにもいつかくるといいなぁと思ってる。本気で思ってる。

 

そんなひとになるために日々を淡々と生きていきたい。なんてインタビューの〆みたいな言葉でおわります。